ホームページへ戻る
| 下に表示されるサブメニューから選択して下さい| 書籍目次 | 解説例 | ご注文 | 歌碑 | 正誤表 | 著者紹介 |




○琉球古典音楽家列伝

了線(1615〜1663)
 尚豊、尚賢、尚質三代に寵愛された三線音楽の達人。「幼少にして盲目となり管弦謳歌を事とする。十才前後にして国王の御前で演奏。三線に長ずる故を以って、天啓年間日本学師本仏寺如竹、当地に在旅の時、号を了線と給う。」と家譜にあるが、如竹の来琉は崇禎五(1632)年で三年滞在しているから了線未だ二十歳前のことである。国王三代の寵愛を受け、婦人、扶持、家宅を給わり、死んでは葬儀の面倒まで受けている。湛水親方以前にこれだけの達人がいたこと、王家が三線音楽を鑑賞し、優れた音楽家を保護していたことは注目すべきことである。 最近まで知られていなかったのを池宮正治によって発掘され発表された楽人である。
(池宮正治著「近世沖縄の肖像」より)

湛水親方幸地賢忠(1623〜1683)
 尚豊、尚賢、尚質、尚貞の四代に仕え、薩摩に上ること四回、鹿児島生活三年で平等之側役(裁判所長官)、御鎖之側(外交事務官長)等の要職を歴任し、具志川間切総地頭職となる有能な官吏であったが、踊奉行の時(1677)遊女を妾にしたことによって時の摂政羽地朝秀の怒りに触れ、官職返上、一介の隠居となって具志川間切田場村に引きこもり剃髪して湛水と号した。羽地没後(1676)首里に呼び戻され、御茶道頭役に任ぜられ(同年御茶屋御殿が出来た)、茶道と音楽に専念して60歳で他界した。慶長の役で敗戦、奄美を失い重税を科されて人心がすさみ、羽地朝秀の大和文芸奨励策の影響も加わって、男は三弦楽を離れて大和芸能に精を出し、古来の弦楽は僅かに女の手(遊郭)によって命脈を保っていたことを憂え、歌カネグスクと呼ばれた人に教えを乞い、音楽を探索して豊かにし、楽節を統一して琉球古典音楽の基礎を確立した。これが湛水流音楽である。明治に入って、松村真信が尚泰王の命を受け、儀保村在住の唯一の伝承者名護里之子親雲上良保の記憶する歌を工工四に載せた。これが湛水流御拝領工工四」である。現在伝承されている曲目は昔節五曲、(作田節、首里節、ヂャンナ節、諸屯節、暁節)と端節二曲(早作田節、揚作田節、ともに上げ出し、下げ出しがある)だけである。

沢岻良沢(1653〜1702)
 12歳の時盲目となり、湛水について絃歌を学んだ。剃髪して良沢と号した。湛水直門の第1人者。自分より年長の新里親方を教えた。

新里朝住(1651〜1713)
 湛水親方の高弟年下の沢岻良沢について弦歌を学ぶ。盲目の聞覚を励まし湛水流を伝授、音楽に専心させ大成させた。

照喜名聞覚(1681〜1753)
 生後間もなく盲目となり、後剃髪して聞覚と号した。新里朝住に学び奥義を究め、別に聞覚流を創始した。聞覚流は個性的、技巧的で、形式主義に陥り大衆性を失ってしまった。彼は特に仲風節に優れていた。聞覚流は 湛水の謡法に彼の優れた技法が加わった程度で、流派と呼ぶほどのものではなかったと云われ、当流勃興の機運に押され衰滅した 。最初の国劇が上演された尚敬王の御冠船に地謡を勤め、工工四も残したというが現存しない。聞覚の手は大宜味朝和に伝えられ同家の家伝となり赤平村の特技として明治の半ばまで残っていたといわれる。それは子安冨祖(1809〜1880)に伝えられ、安冨祖流の手に吸収されていった。従って安冨祖流の中には聞楽流が含まれているといわれる。
(山内盛彬・三弦楽の流派と楽家列伝)

玉城朝薫(1683〜1734)
 良沢、朝住に師事して湛水流の正統を受け継ぎ、子の奥平朝喜にその正統が引き継がれた。朝薫は組踊五番、古典七踊りの作者としての名声が余りにも高い為に、湛水流音楽家としての名はあまり知られていない。
組踊五番=「護佐丸敵討」「執心鐘入」「銘苅子」「女物狂」「孝行之巻」
七踊り=「作田節」「伊野波節」「柳」「天川」「諸屯」「綛掛」「本貫花」

平敷屋朝敏(1700〜1734)
 幼にして父を失い、母方の祖父屋良宣易(著名な和文学者)の訓育をうけて当代きっての和文学者となる。擬古文の短編物語四編と組踊一編「手水の縁」を残す。彼は美貌で早熟で今業平と評判されたという。国家のご難題を企んだとして蔡温の逆鱗に触れ、友寄安乗ら一味15人、ともに処刑された(平敷屋友寄事件)。朝敏はその末路の故に履歴を示すものが残っていない。赤平村の出で、大宜見家の分家であることなどからして聞覚流者であっただろうと思われる。仲風を好んだ形跡からも聞覚に学んだ後がうかがえる。

屋嘉比朝寄(1716〜1775)
 幼児より糸竹の環境に恵まれて天分を発揮し、王府の内命を蒙って薩摩に渡り遥曲仕舞いを学び、帰国して謡曲の師範を努めたが、不幸にして眼病を患い失明した。失意の中、聞覚について学び遂に一家を成す。湛水以来の流儀を遥曲の技法を取り入れて改革し当流を打ち立てた。七五調の口説を作曲し、また野手的な原歌を文学的な歌詞に改めて本歌とし、曲想を確立したのは彼であるといわれる。その際にあっても茶屋節などの大昔節には民族固有の曲節を保存するという意味で改革を加えなかったといわれている。工六四(クルルンシー)を残し(117曲収録)、今日の当流の発展の基礎を築いた。

仲田朝朗(1742〜1814)
 屋嘉比の弟子に仲田朝朗と豊原朝典の二人の高弟がいた。仲田は天才的な声楽家であったという。以下沖縄タイムス(03年6月12日朝刊)、宮城嗣幸氏の投稿からの抜粋でもって紹介する。
 『仲田殿内の系譜に、仲田朝朗の事績として「琉球音楽大家として、屋嘉比工工四の編しゅうに当り、尚温王に献上した工工四の序文を書いた」とはっきり述べている。屋嘉比工工四の編しゅう者、そして「絃声の巻」の筆者は屋嘉比朝寄の高弟仲田里之子朝朗であった。琉楽歴史の埋もれていた事実を発見できた。』

豊原朝典(1740〜1803)
 音楽の才能が貧弱だから自分の天分にあった別の道を選べ、と師の屋嘉比に出入りを禁止されても、木陰に隠れて洩れ来る師の節に耳を傾けて精進し、遂に再入門を勝ち取り、屋嘉比門下第一の高弟になったという逸話の持ち主である。この世界で声の綺麗で聡明な者に上達する者は少なく、辛苦して師伝を受け自ら工夫する者が奥義を究める。といわれるのは、豊原に見習えということである。楽聖知念を育てて当流継承の中継者の使命を果たした。

知念績高(1761〜1828)
 古今独歩の楽人と評され、無系百姓の生まれながら士分に取り立てられた異例の人である。屋嘉比の弟子豊原朝典に絃歌を学び、奥平朝昌に舞踊地謡の心得を学んだ。錬声の逸話に、与那原から薪を背負って首里に上る道中歌い通して狂人扱いされたり、首まで水に使って発声したり、観音堂の坂を駆け上って伊野波節を歌ったりしたという。声と節と三弦の奏法兼ね備えたという。前奏(ウタムチ)はその曲の主題であるから曲ごとに違うべきであるとして幾つか改作してある。コテイ節、仲村渠節,金武節、恩納節などがそれであるといわれている。ハヤシを入れ替えたり新しく挿入したりして歌の調子を整えたり、自ら作曲したり,収集したりして、屋嘉比工工四の歌数  115曲から知念工工四では163曲に増えている。歌情けの探索にも逸話が残されている。十七八節の復活にも知念の逸話がある。知念の工工四(クルルンスィがクンクンスィと呼び名が変った)は、上巻節など大方失われ、中巻節のわずかしか残っていない、芭蕉紙工工四の名で知られているが、原本は失われている。

安冨祖正元(1785〜1865)
 知念に師事し、謙虚な人柄で師風を伝承するのを一生の使命と考え、安冨祖流を創設する意図はもっていなかった。 知念没後12年(1840)「知念工工四」を編纂(県立博物館に残るいわゆる知念工工四ではない)書き流しの工工四であったようである。その五年後には「歌道要法」を著して音楽者の心構えを説き、あわせて琉歌集を編纂して節組みを示し、それぞれの場に相応しい歌詞、忌むべき歌詞の選択を説いている。

野村安趙(1805〜1871)
 尚こう、尚育、尚泰王三代に仕えた。歌三線の外、囲碁など多芸の持ち主でユーモアがあって、私的に王の側に仕えることが多かったといわれる。尚泰王冊封の歌師匠を勤めた。王命により、知念〜安冨祖と引き継がれてきた工工四の編纂を松村真信ら高弟を指揮して成し遂げて尚泰王に献上した。これは、従来の書き流し式を改め一行十二枡の中に弦譜を収め、○拍子数をその通りキチンと収め、歌の出切仮名の位置を桝目に沿って示し、歌のテンポも人脈をもって示した画期的なものである。これが「欽定工工四」または「御拝領工工四」と呼ばれているものである。

松村真信(1835〜1896、明治29年)
 野村安趙の下で学び、数理にも明るかったといわれ、御拝領工工四編纂の中心的な役割を果たす。尚泰王の命を受けて「湛水流工工四」も編纂した。琉球古典音楽発展への功績は大きい。その芸風は野村流松村統絃会に受け継がれている。

桑江良真(1831〜1914,大正3年)
 野村安趙の高弟、琉球王朝最後の御冠船を経験(歌人数)した人で、野村の風で多くの音楽家を育て今日の野村流発展に尽くした。

安室朝持(1841〜1916、大正5年)
 安冨祖正元に学び、安冨祖流の継承に尽くし、安冨祖流工工四を残した。(現存しない)

金武良仁(1873〜1936、昭和11年)
 安室朝持に学び、歌三線はもとより、胡弓も笛も筝曲も、舞踊まで芸能全般に秀でた人で、その古典音楽の品位は聞く人の襟を正した逸話を持って居り、近世の名人と呼ばれた。昭和11年の東京青年会館における講演では病を押して演奏し、無理がたたったのでしょう、帰任後直ぐ他界して惜しまれた人である。

山内盛憙(1842〜1916、大正5年)
 野村安趙の高弟で欽定工工四編纂に加わった一人である。松村真信とともに湛水流工工四の編纂にかかわり、湛水流を今日に伝えた人である。孫の山内盛彬を育て琉球古典音楽に尽くした功績は大きい。

宮城嗣長(1861〜1944、昭和19年)
 国風絲楽三線譜(欽定工工四)編纂者松村真信の高弟、松村直伝の理論一定[イチダミシ]を現代に伝えている。琉球古典音楽野村流松村統絃会の創始者である。

伊差川世瑞(1872〜1937、昭和12年)
 桑江良真に学ぶ。大正13年(1924)野村流音楽協会設立し初代会長となる。昭和10年(1935)世礼国男と共著で声楽譜附工工四を刊行した。野村流発展への功績は大きい。伊差川公民館敷地内に記念碑がある。

世礼国男(1897〜1950、昭和25年)
 県立二中教諭時代に教諭仲間とともに伊差川世瑞に師事し、声楽譜を考案、今日の「野村流声楽譜附工工四」を師匠の伊差川世瑞と共著で出版した功績は大きい。若い頃から秀才で、詩人としても名を残した人である。郷里平安座島には記念碑が建っている。


ホームページへ戻るホームページへ戻る

連絡先: info@fushiuta.biz
Copyright©2003-2014 Yoneo Oshiro All Rights Reserved.