○琉球古典音楽の歴史
まだパスポートを持って本土に渡航していた頃のことである。友人と二人、東北の旅で奥州平泉中尊寺を訪ねた時、金色堂を飾っている夜光貝が琉球産と知った時の驚き、(中尊寺の建立は1105年)それより先、久米や石垣の人々の来訪が大和朝廷の記録に残っていることは本の上では知っていたが、いま金色堂では物的証拠を突きつけられたのである。大和と沖縄、彼我の交流(貝の道)は古い歴史を持っているのである。
さて、12世紀〜15世紀にかけては琉球史で「グスク時代」と呼んでいる。歌謡史では「おもろ(古代歌謡)の時代」とよばれる。
オモロについての奥里将建の研究を紹介する。それによると、「平安時代の催馬楽[サイバラ]、田歌[タウタ]、夜須礼歌[ヤスライウタ](田歌が地方田園の歌であるのに対して、夜須礼歌は京都紫野の今宮神社の祭礼の時に歌われた歌)といった民謡性の濃い歌詞の音数率とオモロの音数率とは近似性が濃く、創作年代も近接している。使われている囃子にも近似性がある。」
さて、この時代は農耕村落が形成され、拝所(イベ)を中心に共同体社会で祭りが行なわれ、古代歌謡が生まれた。按司と呼ばれる首長を中心に政治的なまとまりが形成され、その按司たちの抗争の中から沖縄は三山鼎立の時代に入る。日本本土では源平合戦があり、敗れた平家の残党が南島に落ち延びてきた。かれらが奄美に今様をつたえ、そこから、後の八八八六の韻を踏む琉歌が萌芽したと考えられている(阿波根朝松「沖縄文化史」)。「琉球古典音楽の八八八六の音数率は、五七調の和歌ではなく俗謡の催馬楽(貢納途中の馬子歌に起源する古代民謡が平安時代に宮廷音楽に取り入れられた歌曲)や今用、に含まれる八八・八六調が南走した平家によってもたらされたものである。」(奥里将建「沖縄古典芸能の源流」より)。これらは「梁塵秘抄[リョウジンヒショウ]」(御白河法皇自ら編纂したもので平安末期に流行した今用、催馬楽などの歌を分類集成した流行歌謡集)となって残っている。
それより少し時代が下って、中国では倭寇の被害もあり海禁政策をとる中、元が亡び明が起こる。1372年、明の招諭に応えるかたちで中山・浦添の城主・察度は対明朝貢貿易を初めた。それから20年後の1392年には中国福建省からまとまった移住者が来島し、彼らは浮島に居(唐栄、今の久米町)を構え首里王府に仕えた。三線の伝来はその頃であろうと推測されている。
15世紀に入ると、尚巴志による三山統一(1429年)があり(第一尚氏)、金丸による第二尚氏王統が起こり(1470年)、尚真王による中央集権(各地の按司は領地をひきあげて首里城下に集住)が(豊臣秀吉による検地と刀狩に先立つこと百年前)進められた。尚巴志による三山統一、尚真王による中央集権は音楽文化の面でも地方の歌が中央に集められ磨かれていく過程である。三線の伝来は三線音楽を生み、節歌は不定形詞の古代歌謡(おもろ)に定型詩への移行を促し、琉球古典音楽が芽生えたと考える。伝承の域を出ないが、尚徳王女にまつわる首里節の口伝、尚真王代(と推測する)のインコネアガリの伝承に琉球古典音楽の発生を読むのである。その長詩型のオモロから短詩型の琉歌への移行は英祖王を称えたオモロ、察度王を称えたオモロに見ることができる。三線音楽(琉歌)の流行につれてオモロは衰退していく。十六世紀に入って「おもろさうし」の編纂が行なわれたのも、地方に伝わる「うた」を中央で纏めて残そうとする一連の文化運動である。尚真王の中央集権で首里城下に士族階層(有閑階層)が生まれ、彼らは、それらの文化運動を担う階層となった。
その間、日本本土では鎌倉、室町、戦国時代をへてようやく全国統一への動きが出てくる。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康へと引き継がれてこの事業は完結する。琉球も島津の支配下のもと幕藩体制下に組み込まれていった。
島津の侵入(1609年)の前、僧侶や特に念仏集団の来島が目立つ。彼らは京太郎と称したが京ではなく島津の密偵であっただろうと考えられている。しかし彼らは沖縄にチョンダラー芸を残し、袋中上人は七月エイサーを残した。島津の支配を受けて衰退していく三絃楽を立て直したのは幸地賢忠(湛水親方)である。ここに初めて琉球古典音楽が確立された。新しく東苑・御茶屋御殿が建てられ(湛水は御茶道頭に任ぜられた)、茶屋節(大昔節)が創作された。ここに琉球古典音楽に一つの流儀が打ち立てられた。湛水流である。
琉球は察度の朝貢貿易以来、中国との間に冊封体制がしかれていたが、薩摩の支配を受けたことにより、その政治は難しい舵取りを要することとなった。首里士族の間には和文学に親しみ、十八世紀に入ると和歌の影響をうけた琉歌が流行、仲風、口説と呼ばれる歌が出てくる。仲風は平敷屋朝敏に代表され、口説は屋嘉比朝寄に代表される。また屋嘉比は遥曲の技法を取り入れて湛水以来の古楽を改革し、当流を打ち立てた。彼の残した書き流し工六四は現存する最古のものである。当流は稀代の楽聖知念績高によって更に磨きが掛けられ、安冨祖正元、野村安趙へと引き継がれ、野村流と安冨祖流に別れて今日にいたる。
琉球王府は歌舞音曲をもって外交の手段として来た。王一代の冊封式典(いわば戴冠式)には遠路中国から冊封使が来島した。200〜500人規模で、ほぼ半年滞在する一行を歓待するのに首里王府は歌舞音曲に磨きをかけた。古典舞踊も組踊もそのような時代の要請から生まれてきた。一方、薩摩の殿様の江戸のぼりには琉球から多くの楽童子が随行して道中路地楽を奏し、江戸に上っては薩摩屋敷あるいは江戸城で歌舞音曲を上覧にいれた。その路地楽や御座楽は廃藩によって継承の基盤を失い、忘れ去られてしまった。廃藩に直面した首里王府では、継承されてきた宮廷音楽(琉球古典音楽)を書き残す作業が進められた。野村安趙は琉球王府最後の王尚泰の命を奉じ、工工四を編纂して王に献上した。これが「欽定工工四」あるいは「国風絲楽三線譜」、「御拝領工工四」などと呼ばれているものである。その「野村欽定工工四」の流を受け継いでいるのが今日の野村流である。しかし、古典音楽家の中には野村の楽譜を受け入れない人たちが居た。その流は後(1912年、明治45年)安室朝持による新たな工工四の編纂を得て安冨祖流を名乗った。
御扶持をいただいて王府の古典芸能を担ってきた首里士族は廃藩によって禄を失い路頭に迷った。彼らは粗末な芝居小屋で身につけた歌舞音曲を催し、わずかな木戸賃で糊口をしのいだ。そして沖縄芝居の役者へと転進していった。かれらは新しい時代感覚を取り入れて雑踊[ゾウオドリ]を創作し、歌劇、芝居を創作して命脈を保ち、今日の私たちに琉球芸能を引き継いだ。琉球古典音楽は
山内盛彬の言葉を借用して付け加えると「アカインコの畑に湛水親方が種をまき、屋嘉比が育て、知念で実を結んだ」ものである。
琉球古典芸能は中国からの冊封使の歓待や江戸上り、薩摩と深く結びついて語られる。そのいわゆる日支両属の、朽ちた縄で馬を 御する如き苦難の外交の中で磨かれてきたのが琉球古典芸能である。至芸への研鑚は生半可なものではなかったであろう。国運と名誉にかけて日夜辛苦したであろう。
冊封使一行は多い時は500人、少ない時で200余が短くて5ヶ月、長いのは9ヶ月滞在する。その間公式の歓待行事は7回、その他に王子、按司クラスの私邸でのもてなしもあり、加えて一行はそれぞれに商いの品物を持参しており、それを全部買い取らなければならない。総人口20万〜30万の琉球にとって大変な難題であった。「組踊」も「古典女踊り」も冊封使歓待のために創作されたことは前記のとおりである。歌にも踊にも中国(冊封使)向けと大和(薩摩・江戸)向けがあることにも注意していただきたい。
江戸上りは、西国名古屋あたりまでは舟の乗り継ぎもあったがそれ以降の東海道はわらじ履きで寒さに震えながらの旅路であった。江戸につくのは大体旧暦の11月も下旬であった。参考までに8回目の江戸上り、家継将軍職への慶賀使と尚敬王即位の謝恩使が重なった1714年の江戸上りは総勢170人(楽師5人、楽童子8人を含む)であった。「六諭衍義」で名高い程順則名護親方寵文がこの時の江戸上りに加わっており、新井白石、荻生徂徠と会談した。六諭衍義は荻生徂徠の訓点、室鳩巣の和訳で全国の寺子屋に平易な教訓書として広まった。江戸のぼりの経費も莫大で4〜5年前から国中に賦課徴収してこれにあてたといわれる。
一行の江戸における公式行事は、(ア)進見の儀、(イ)奏楽の儀、(ウ)辞見の儀、(エ)上野宮参拝、(オ)薩摩邸における行事等があった。(ア)進見の儀は将軍の襲職を慶賀、国王の襲封を謝する儀礼であり、(イ)奏楽の儀における楽人の構成は、楽正・儀衛正・楽師・楽童子・路次楽人から構成され、儀衛正は路次楽奉行(主取)で路次楽人を指揮して路次楽の吹奏にあたった。楽正は座楽奉行で楽師・楽童子は座楽の演奏にあたった。(ウ)辞見の儀の登城の行列は進見の時と同じであった。大老・老中・薩摩藩主が列座したが将軍の出御はおおむねなかった。(エ)上野宮参拝は、江戸上りが将軍に対し異国の陪臣としての「城下の盟」を新たにする儀礼であるが故に、現支配権者の始祖の廟に詣でるのは当然であった。(オ)薩摩屋敷での行事には学者、文人を交えての、いわゆる文化活動などもあり、歌舞音曲演奏があった。御三家廻り、老中・若年寄邸廻りもあり、その行列は江戸登場の半分の規模であったが町触によって規定の道筋を通って行なわれた。路次楽走者は江戸上りの道中は言うに及ばず、江戸においても宿舎の発着ごとに路次楽を奏した。
江戸のぼりは90名ほどの規模で、一行中の楽童子は大体6名ほどで、江戸城に上り諸大名陪席の上、音楽・舞踊を将軍の上覧に供した。薩摩屋敷から江戸城までの行列はことさらに異国風を装い中国式の儀仗をささげ中国風の路次楽を奏し前後を固める薩摩の警護を含めると900人ほどにものぼり江戸中を沸かせた。「琉球使者の江戸上り」より。
ことさらに異国風を装っているのは異国を支配している、という薩摩の自己顕示であり、その上にたつ徳川将軍の権力の宣伝に他ならないが、琉球古典芸能は外交上のこれらの公式行事に花を添えるものであった。遊郭や劇場で銭をとって見せる類のものではなかった。それ故に歌にも踊にも格式・品位の高いものが求められ、残されたのである。琉球古典音楽を真に理解すれば、単なる歌の稽古では済まされないものがある。
参考となる冊封使渡来年表と江戸上り年表を次に示しておく。
冊封使渡来年表((1)〜(23)は渡来の回数)
<年表の読み方>
西暦1372年察度即位して23年目に、はじめての使者が来島、(1)は初回を意味する。
ただし、厳密に言えばその時の使者楊戴は冊封使ではない。(2)以降(23)までは冊封使である。
1260年 |
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英祖王統は(1260〜1349)五代90年間 |
1372年 |
(1) |
察度23年、招諭使楊戴来島 泰期明に進貢 |
1404年 |
(2) |
武寧2年、察度王統は二代五十六年間
尚思紹(冊封なし)第一尚氏王統は(1406〜1469)七代 六十三年間 |
1425年 |
(3) |
尚巴志4年 |
1443年 |
(4) |
尚忠4年 |
1448年 |
(5) |
尚思達4年 |
1452年 |
(6) |
尚金福3年 |
1456年 |
(7) |
尚泰久3年 |
1463年 |
(8) |
尚徳3年 |
1472年 |
(9) |
尚円3年 第二尚氏王統
尚宣威(冊封なし) |
1479年 |
(10) |
尚真3年 |
1534年 |
(11) |
尚清8年 冊封使陳侃の「使琉球録」 |
1562年 |
(12) |
尚元7年 冊封使郭汝霖「使琉球記」 |
1579年 |
(13) |
尚永7年 |
1606年 |
(14) |
尚寧18年 冊封使夏子陽「使琉球録」 |
1633年 |
(15) |
尚豊13年 |
1663年 |
(16) |
尚質16年 冊封使張学礼「使琉球記」 |
1683年 |
(17) |
尚貞15年 冊封使汪楫「使琉球雑録」。
尚益(冊封なし) |
1719年 |
(18) |
尚敬7年 冊封副使徐葆光「中山伝信録」 |
1755年 |
(19) |
尚穆5年 冊封副使周煌「琉球国志略」 |
1800年 |
(20) |
尚温6年 冊封副使李鼎元「使琉球記」
尚成(冊封なし) |
1808年 |
(21) |
尚こう5年 |
1838年 |
(22) |
尚育4年 戌の御冠船 |
1866年 |
(23) |
尚泰19年 寅の御冠船 冊封使趙新「続琉球国志略」 |
琉球使者の江戸上り年表
1634年 |
(1) |
尚豊襲封の謝恩使 佐敷王子朝益 |
1644年 |
(2) |
尚賢襲封の謝恩使 国頭王子正則 |
1649年 |
(3) |
尚質襲封の謝恩使 具志川王子朝盈 |
1653年 |
(4) |
家綱襲職の慶賀使 国頭王子正則 |
1671年 |
(5) |
尚貞襲封の謝恩使 金武王子朝興 |
1682年 |
(6) |
綱吉襲職の慶賀使 名護王子朝元 |
1710年 |
(7) |
家宣襲職の慶賀使 美里王子朝禎 (荻生徂徠の「琉球聘使記」にケフノホカラシヤの歌詞初見)
尚益襲封の謝恩使 豊見城王子朝匡 |
1714年 |
(8) |
家継襲職の慶賀使 与那城王子朝直
尚敬襲封の謝恩使 金武王子朝祐 |
1718年 |
(9) |
吉宗襲職の慶賀使 護得久王子朝慶 |
1748年 |
(10) |
家重襲職の慶賀使 具志川王子朝利 |
1752年 |
(11) |
尚穆襲封の慶賀使 今帰仁王子朝義 |
1764年 |
(12) |
家治襲職の慶賀使 読谷山王子朝恒 |
1790年 |
(13) |
家斉襲職の慶賀使 宜野湾王子朝祥 |
1796年 |
(14) |
尚温襲封の謝恩使 大宜味王子朝規 |
1806年 |
(15) |
尚こう襲封謝恩使 読谷山王子朝勅 |
1832年 |
(16) |
尚育襲封の謝恩使 豊見城王子朝典 |
1842年 |
(17) |
家慶襲職の慶賀使 浦添王子朝熹 |
1850年 |
(18) |
尚泰襲封の謝恩使 玉川王子朝達 |
その他に1609年尚寧王が囚われの身になって薩摩に渡り、翌年駿府の家康に謁見、江戸に上って将軍秀忠に謁見し1611年に帰国したのがある。
また、明治5年(1872年)明治天皇への慶賀使 伊江王子がある。
7回目と8回目は慶賀使と謝恩使が同道している。
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