本著の発刊によせて
沖縄県文化財審議会会長 宜保栄治郎
この度、親友の大城米雄君が長い間課題としてきた「古典音楽工工四」に沿った歌詞の読みと解釈本を出版することになり、誠に時宜を得た待望の書だと喜んでいます。沖縄には大和の和歌に対して琉歌と呼ばれる豊富な歌謡があります。和歌が五・七・五・七・七のリズムを持つのに対して、琉歌は八・八・八・六のリズムを持つ定型詩です。琉歌は近世の琉球で成立した定型詩ですので、こちらは明らかに古代に成立した和歌の影響によって定型化したようですが、その成立過程は未だに明らかにされていません。琉歌は現在もなお一部の愛好家によって作詞されていますが、琉球王府時代でほぼ創作生命は終焉したと考えられます。原因は明治以降の皇民化教育による標準語の強制によって琉球方言が衰弱したことによります。しかし音楽的な生命力や教訓歌としての生命力は未だ健在です。
私は絶えず沖縄には決まった宗教はないので、生活規範となったのはこの琉歌であったと主張しています。琉歌は数千と思われる膨大な句数が残されていますが、その主題は叙景歌は少なく極端に叙情的なので、その中には膨大な道徳、倫理を読んだ歌が包蔵されています。例をあげますと「わが身つで見ちど 余所ぬ上も知ゆる 無理するな浮世 情けばかい」伝尚敬王などです。大和の諺の「わが身をつねって 人の痛さを知れ」の琉球編で主題は「情け」ですが、現在評価される沖縄人気質の優しさ、思いやりの深さを形成させた教訓歌の一つと云えましょう。
人類が創造した偉大な文化の一つに宗教があると言われていますが、今日では宗教戦争といわれているように人類を幸福にするはずの宗教が逆に人間殺戮の根拠になっています。その点、琉歌のように共存共栄、愛情、思いやりなどの徳目を主題として詠み込んだ琉歌は万人共通の徳目のようです。極論すれば沖縄にとって琉歌は宗教よりもっと偉大な・徳目、社会指針でありました。
さて、米雄君はその琉歌を沖縄の古典音楽楽譜である「工工四」にのせて歌い教える音楽家ですが、琉球方言が衰微した現在ではその歌詞の意味がよく分らない弟子が多くなり、絶えずその意味や語源を尋ねられることが多いようです。そこでこれまで先学たちが究明した語句の解釈に自論を加え、その成果をまとめる必要を痛感して発刊したのが本著です。しかし、かれが繰り返し述べているように本著は学者・研究者を対象にしたものではなく、あくまで琉球古典音楽楽譜「工工四」を学ぶ人のために書いたものであることです。その本心は沖縄古典音楽の普及を目指したものであることは言うまでも有りません。
願わくば本著が沖縄の音楽文化研究の一里塚となり、さらに音楽愛好家の座右の書として活用されることを祈念します。
平成15年4月吉日
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