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○芸能史から見た琉球史の特色

 沖縄は歌の島と言われます。小さな島にこれだけの洗練された歌・楽曲が残されているその歴史的背景を知っておきたい。首里の県立博物館に万国津梁之鐘があります。その銘文が有名です。以下読み下し文で紹介します(原文は漢文)。
「琉球国は南海の勝地にして、三韓之秀を鍾め、大明を以って輔車と為し、日域を以って脣歯と為す。此二中間に在りて湧出する蓬莱島也。舟楫を以って万国之津梁と為し、異産至宝十方刹に充満せり。(以下省略)」

銘文の大略は、琉球国は南海の優れた場所にあり、韓国に学び、中国の援助を受け、日本と親しく睦み、朝鮮・中国・日本の間にあって、舟をもって橋となし交流交易し、諸国から取り寄せた珍品が充満しています。

 この鍾は尚泰久王が1458年に鋳造し首里城正殿に掛けてあったもので、当時の琉球王国の意気盛んな様子が伺えます。また、琉球の万葉集とも言われる古謡集「おもろ」には、大海に乗り出して活躍した様子がうかがえる歌が残されています。琉球王国存立の根幹は中国との冊封関係にあります。大陸では明の太祖光武帝が元を北方に追いやって漢民族の国、明を建国(1368年)した時、周辺の国に使いを出し朝貢を促しました。時の浦添城主・ジャナモイ(察度王)はそれに応えて使い(泰期)を中国に派遣しました(1372年)。以来廃藩まで琉球の中国への冊封関係は続くのです。当時中国が海禁政策をとっていた関係もあって、琉球は東南アジアから朝鮮・日本をまたに掛けていわゆる中継ぎ貿易で繁栄したが、16世紀に入ると、ポルトガルを先頭にヨーロッパ諸国の船が進出してきて、琉球の中継ぎ貿易は次第に衰微していく、17世紀に入ると薩摩の支配下に組み込まれる(慶長の役1609年)形で幕藩体制下に入り、後の明治維新を迎えるのである。

 その間、琉球では尚真王の時代(1477〜1526)、中央集権(諸按司の首里集住・武器の取り上げ)が日本史における豊臣秀吉の検地と刀狩に先立つこと百年前に行われ、以来琉球王国では武器に頼らず歌舞音曲など文化をもって外交の手段とする伝統が受け継がれてきた。今日、本土他府県では床の間を飾るのに鎧・兜・刀などの武具をもってするのに対して、ここ沖縄では三線をもってする慣わしがあります。琉球王の代替わりごとに中国皇帝による認証式・戴冠式が行われ、(琉球史ではそのことを御冠船とよんでいる)その使者、冊封使一行(一行200〜500人の琉球滞在期間はほぼ半年に及んだ)を歓待するのに御冠船踊が盛大に催され(冊封使一行を迎えての公式行事は、その滞在期間中7回に及んだ)、一方薩摩の殿様の大名行列には大勢の楽童子が随行し、江戸までの道々、楽を奏し、江戸に上っては薩摩屋敷や江戸城で歌舞音曲を上覧に入れる。そのため琉球王府では歌舞音曲(本土芸能の遥曲、仕舞いなども含む)はもとより茶の湯、生け花に至るまでその素養無き者は役人に取り立てないといわれ、士分の子弟は幼少の頃からその研鑚に励んだのである。

 首里王府においてはその関係の奉行も置かれ、古くは湛水親方、屋嘉比朝寄、知念績高、安冨祖正元、野村安趙、また組踊の創始者として名高い玉城朝薫等々、これらの人々はすべて王府より御扶持(禄)をいただいて至芸の研鑚に励んだのである。それゆえに沖縄の音楽舞踊は宮廷芸能として品位の高い芸能として磨き上げられてきたものです。万国津梁之鐘が示す異産至宝は芸能などの無形文化財にも及んでいるのです。


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